何故だか人権派などと呼ばれる弁護士や政治活動家(ま、左ですよね)は「平等」という言葉が大好きです。
はたして、全てにおいて平等というものがあるのでしょうか?
ここで書きたいのは、Facebookで書いた「保育園落ちた」の補足です。

持って生まれた才能というのは、極めて不公平です。身長が高い者や足の速い者など、それこそ枚挙に暇がありません。ついでに言えば「こんな家庭に生まれたくなかった」などというものまで。
果たして我々はどこまでが平等という思想で論じることができるのか?
実は子供の頃、こういうことを考える人でした(あーメンドクサイヤツ)
例えば、力で明らかに劣る女性が、男性と同じガテン系のそれも全く同じ仕事をできるか、というと、できる人はいるかも知れませんが、多くの人はムリでしょう。プロレスラーのように鍛えて、並みの男が敵わないという特例はあってもです。
土台ムリなのは、男が出産を経験できないし、自らのおっぱいを子供に授乳できないのも、生物としての差別、と言ってしまえば、ああそういうことね。
つまり、全て平等はムリなのです。
本来、平等とはそうした立場に左右されずに扱ってもらえるものと解釈しています。そこで思い出すのは人種差別でしょう。白人たちは自分たちは優れていて有色人種は劣っているとの考えから、黒人を奴隷にしましたし、アジアの諸国は白人によって長い間支配されました。日本が大東亜戦争を行ったのは、こうした白人によるアジアの開放が理由であったことは学校で教えられず、いまだに侵略戦争とのレッテルを貼られて久しい戦後。
生まれながらにして、努力しても運命が変えられないことが差別でしょう。
一方で公平という言葉もありますよね。先ほど書いた「女性の肉体労働」は身体能力の差を補完して平等に扱おうとすると「公平」だと言えるのではないでしょうか。多くの人が「公平さ」に基づいて判断される、とする社会の方が生きやすい社会のように私には見えます。
投稿では、共産党の吉良よし子議員を引き合いに出していますが、こうした実情から公平に判断すれば、彼女の優先順位はかなり下げないと公平ではありません。公共の福祉は、必要とされる者に優先順位が来るのが当たり前だからです。それを差別と呼ぶのなら、私は何故に震災のお見舞金を貰えないのか!と叫んでも異常者とは思われないことになるでしょう。
それくらい、これら運動家のいうことは異常と思われることが多過ぎなのです。

地方都市では、保育園も幼稚園も空きが目立っています。なのに入れないのは、あなたの努力が足らないのではなく、そのような人とはみなされない別の理由があるからでしょう。
例えば、個人経営者で共働きと同じで大変だ、と言っても標準的な収入より高収入であれば緊急性があるとは言えません。いくらネットで吠えたところで、誰もあなたの年収は知らないのですから「公平」な判断はできかねる、というわけです。

辛辣な言い方をすれば、国とか悪者にしやすい誰かを罵ってさえいれば正義、というアタマの悪い発想しかできないのがサヨク、それに乗る人々もアタマ悪いでおしまいなのではないでしょうか。最も楽な方へ流れているだけ。
中立に物事を考えるって凄くアタマを使うので疲れるのです。それから逃れたいだけの人が罵っていれば良いんじゃないでしょうか。


本日は「そばめし」と「スープ」
悩んで決めたメニューがこれ。何だか炒めたご飯率高いw
一気に5人分を作ったのはやっぱり誤算でした。総重量1kg以上では混ぜるのもヒーヒー言いながら。華麗なフライパン捌きなどとは異次元の、単なる肉体労働になってしまいました。炭水化物は焦げやすいとの予想通りフライパンに張り付き、根性で剥がしてみたら煎餅みたいで美味しかったのは予想外。
ケガの功名ということにしておきましょう。
スープは見え難いですが、いや全く見えないですがワカメと玉子のスープです。